「亜矢世界」とその「周辺世界」
島津亜矢さんの「名作歌謡劇場」には、お芝居や映画ではお馴染みの、さまざまな世界が登場してきます。「お馴染み」といっても、その実像についてはよく知らないので、登場する人物の人物像を探ったり、原作の世界を覗いたりすることは、大変に興味深いものがあります。
また、「BS日本のうた」のなかでは、戦前から戦後にかけて活躍された大スターの楽曲も、数多く歌っています。
ここでは、「亜矢世界」に登場する名作の背景や登場人物の実像、更には、オリジナル曲を歌った歌手のことなど、島津亜矢さんを巡る、その周辺の世界について、触れて見たいと思います。

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 島津亜矢、東海林太郎の「♪名月赤城山」を唄う!

「島津亜矢の名作歌謡劇場」第3弾「関の弥太っペ」のカップリング曲「名月赤城山」は、燕尾服に身を正し直立不動の姿勢で歌う東海林太郎さんが、昭和14年に発表された楽曲です。空前の大ヒット曲となった「赤城の子守歌」とともに新国劇の当り狂言「国定忠治」が、その背景にあります。

東海林太郎さんは、秋田市のご出身。旧制秋田中学(今の秋田高校)に学んでいます。当時、秋田師範には、後に作曲家として名を馳せた成田為三が学んでおり、「秋田では、師範の成田か、中学の東海林か」と言われたくらいに音楽、特に彼は、バイオリンを得意としていたそうです。
成田為三さんは、「浜辺の歌」を作曲された方で、「かなりや」「赤い鳥小鳥」「すずめのお宿」「雨」など北原白秋の詞を多く作曲されていますね。

卒業後、東京音楽学校(現・東京芸大)を受験、合格しますが、父親の反対に遇い、早大へ進み、そこでマルクス経済学者佐野学のゼミに籍を置き、左翼思想に傾いて行きます。
その彼が就職したのは、南満州鉄道株式会社、即ち、当時の超一流企業「満鉄」でした。所属は、「庶務部調査課」だったそうですが、これが、かの有名な「満鉄調査部」であるのかどうか、私は知りません。ともあれ、当時、優秀な人材が集まっていたと言われていた「満鉄」においても、秀れた企業人だったようです。しかし、学生時代からの、左翼的思想・信条故に、鉄嶺図書館長へと左遷され、音楽への情熱を捨て切れないこともあって、昭和5年、退職して帰国、クラシックを学びます。
昭和8年、音楽コンクール声楽部門で入賞するものの、音大を出ていないこともあり、クラシックを断念、流行歌の歌手としてデビュー、時に34才でした。

その翌年に、あの「赤城の子守歌」が誕生したのです!この歌は、空前の大ヒットとなり、以後、「国境の町」(私は哀調を帯びたこの歌が大好きです)、野崎観音の言わばPRソング「野崎小唄」、田中絹代さんの台詞入り「すみだ川」、長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」の主題歌「むらさき小唄」、島津亜矢さんもカバーされている「旅笠道中」(♪夜が冷たい 心が寒い・・・)、戦時歌謡「麦と兵隊」などの大ヒットを飛ばし、大スターとして、揺るぎない地位を築きました。
ある年には、一年間に113曲もの曲を吹き込んだという、信じられない話が残っています。
3日に1曲のペースですよ!

戦後の東海林さんは、大病を患い、不遇な一時期もありましたが、「日本歌手協会」を設立、歌手の方々の権利と利益を守るため、初代会長としてご尽力をされました。
生涯現役!を貫いた、その生き様には、心打たれます。
幸いにして、古い映像が残っていますから、今でも時折、私達は東海林さんのステージ姿を、テレビで拝見することが出来ます。大変幸せなことだと思っています。昭和47年にお亡くなりになりました。享年 73才。

余談になりますが、「名月赤城山」の名台詞「加賀の国の住人 小松五郎義兼が鍛えた業物」の「小松・・・・・」という刀工は、創作上の人物で、このような、講談や小説が創り上げた刀工のことを「幽霊刀工」と呼んでいるそうです。

ところで、島津亜矢さんがお歌いになる「名月赤城山」!
これはもう、東海林太郎さんがお歌いになるそれとは、全く趣を異にする、別の楽曲である!と考えた方が良いのではないか!と思います。つまり、カバー曲にしてオリジナル曲である!こんな言い方は、矛盾しているようですが、そんな感じがしてなりません。


 男・・・新門辰五郎

島津亜矢さんは、熊本県のご出身ではありますが、気風の好さが売り物の江戸っ子を歌った歌が、お上手ですね。
♪「男・・・新門辰五郎」は、歯切れがいい歌唱で、非常に優れた楽曲だと思います。
「島津亜矢の名作歌謡劇場」第9弾「梅川」のカップリング曲としてリリースされましたが、いわゆるB面の楽曲としては、惜しい気がする程、すぐれた作品だと思います。
勿論、「梅川」は、近松門左衛門の「冥途の飛脚」に題材を採った、6分43秒に亘る大作ですから、この作品との組み合わせということになれば、止むを得ないのかもしれません。

さて、江戸火消し「を組」の組頭として、お芝居、映画、講談などでもお馴染みの新門辰五郎!元の名を中村金太郎といいます。煙管職人だった中村金八の子。父親も、中々の男だったようで、弟子が起こした火事で「世間に申しわけがたたねえ」といって焼死してしまいます。このため、金太郎は「火消し」になろうと決意したと言われています。

浅草十番組「を組」の組頭町田仁右衛門に弟子入り、この組頭は、3年前に息子の辰五郎を亡くしていたので、同年輩の金太郎を「辰五郎」と名付けました。やがて、頭の娘を娶り、24才の時に「を組」を継承し、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸にあって、彼は持ち前の気風の好さと度胸で、喧嘩の仲裁などで活躍し、名を挙げて行きます。
火事場という、言ってみれば修羅場で鳶口一つで戦う「火消し」の姿が江戸っ子の目には、カッコ良く映ったのでしょう。
彼の「新門」という姓は、輪王寺宮が、浅草寺伝法院に隠居して、新たに設けた通用門を警護したことに由来する、と言われています。

彼が、後に最後の将軍徳川慶喜と遭遇する話は、NHKの大河ドラマ「徳川慶喜」で詳しく紹介されましたから、ここでは、省略させて頂きます。♪名月赤城山 ので出しに「男ごころに 男が惚れて・・・」という一節がありますが、
辰五郎親分は、余程、慶喜に惚れ込んだとみえて、「禁裏御守衛総督」を命じられた慶喜が上洛の際には、これに随行し、大政奉還後、慶喜が水戸に謹慎すれば水戸へ、その後、静岡へ隠遁すれば静岡へと従い、自ら進んで慶喜の身辺警護に当ります。静岡では、清水次郎長と会見、恐らくは、慶喜の身辺警護のことを次郎長に託し、自分の役目を終えたのを悟り、明治4年、東京へ戻ります。
晩年の、彼の写真が残っていますが、小柄な体で、おとなしい男に見える人物です。しかし、度胸の良さ、胆っ玉が据わっている♪男の中の・・・男でござる。「最後の侠客」と言われています。明治8年没。享年75才。

ところで、江戸火消しには、大別して、「大名火消し」「定(じょう)火消し」そして、辰五郎の「町火消し」のグループがあったそうです。
「大名火消し」とは、大名が自分の江戸藩邸の消火のために専属に召抱えた火消しのこと。加賀100石の加賀鳶が有名ですね。因みに、播州赤穂藩は藩主自らが「火消し」には、非常に熱心で、赤穂浪士吉良邸討ち入りの際の装束が火消し装束だったのは、その影響もあったとも言われています。
「定火消し」とは、旗本お抱えの火消しのことです。火消し組、火消し役などの名称が、残っています。
「町火消し」は、8代吉宗の時代、つまり享保年間に,
大岡裁きで有名な大岡越前守忠相によって設置されたものです。お芝居では、「め組の喧嘩」の「め組」も有名です。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われていますが、今では、「江戸消防記念会」が、纏振り、梯子乗り、木遣りなど、当時の花形であった「火消し」の面影を伝えています。 


 島津亜矢 ♪伊那の勘太郎を唄う!

島津亜矢さんは、我が故郷信州の有名人である「伊那の勘太郎」を歌った、その名もずばり、「♪伊那の勘太郎」を、「名作歌謡劇場」第8弾「♪おりょう」のカップリング曲として発表されています。
彼女が、最も得意とする任侠股旅物の世界に登場する人物は、実在した歴史上の人物もいますが、文学作品、芝居、映画、浪曲などに登場する架空の、創られた人物もいます。伊那の勘太郎は、その後者、つまり、創られた有名人であって、実在した人物ではありません。

「伊那の勘太郎」は、昭和18年に製作された東宝映画「伊那節仁義」に依って、この世に誕生したのです。主演の勘太郎役が長谷川一夫、その相手役が山田五十鈴という、当代切っての人気俳優の競演映画ですから、当らないわけがありません。この映画の主人公こそが、「伊那の勘太郎」だったのです。信州では、今でも、ご年配の方は、「伊那の勘太郎」を親しみを込めて、「勘太郎さん」と、「さん」付けで呼ぶ程ですから、私もそのように呼ばせて頂きます。

さて、いかに映画が流行ったからと言っても、それだけで、勘太郎さんが、全国的な有名人になれるわけがありません。小畑実さんの主題歌「♪勘太郎月夜唄」が、その甘い声と軽快なリズムに乗って、空前の大ヒットとなったからです。♪影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り・・・という歌い出しの部分の歌詞とそのメロディーは、ご存知の方も多いと思います。
99年の「島津亜矢大全集」他の中にも収録されていますから、彼女のファンの方なら、勿論、ご存知だと思います。この歌の三番の「♪菊は栄える 葵は枯れる・・・」の部分は、勤皇と佐幕を意味していることは、誰にも察しが付くことですが、映画のストーリーと深い関係があるようです。でも、当然のことながら、私がこの映画を観たわけではありませんから、その辺は省略させて頂きます。

島津亜矢さんの「♪伊那の勘太郎」に、「♪ハァー、天竜下れば 飛沫がかかる・・・」という一節があります。これは、市丸姐さんの「♪天竜下れば」の「ハー天竜下れば ヨーホホイサッサ しぶきがかかるヨ・・・」から採ったものではないかと思われます。市丸さんは、長野県松本市のご出身、昭和8年に歌ったこの歌は、大ヒットしたようで、今でも当地ではよく歌われています。未だ、カラオケがなかった頃、宴席では決まって、この唄が出たものです。

作曲は、長野県中野市(旧下高井郡日野村新保)ご出身の、彼の中山晋平さんです。彼は、1912年東京音楽学校本科(ピアノ)卒。1913年、島村抱月の依頼で芸術座第3回公演「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」(相馬御風・島村抱月作詞)を作曲、主演の松井須磨子(長野市松代町出身)の歌で大評判になり、作曲家として、一躍有名になりました。彼の手になる「船頭小唄」(野口雨情作詞)は、その後の歌謡曲の方向性を決定づけた画期的な作品であると言われています。「出船の港」「東京行進曲」「東京音頭」などのヒット曲のほか、「しゃぼん玉」「鞠と殿様」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」「砂山」「背くらべ」「てるてる坊主」など数多くの童謡を遺しています。生涯の作品数は、約2000曲に昇るそうです。

ところで、信州伊那と言えば、天竜川抜きで語ることは出来ません。諏訪湖を源とし、中央アルプスと南アルプスの間を流れ、静岡県西部を下り、遠州灘に注ぐ「暴れ天竜」という異名を取る川です。「天竜舟下り」「天竜ライン下り」で有名ですが、その二つの川下りの分岐点にある「名勝天竜峡温泉」は、中央アルプスと南アルプスから流れ出る清水によって侵食された奇岩、怪石、絶壁がそびえ立つ景勝の地です。でも、温泉愛好者の私としては、むしろ、この地に平成元年開湯した「温泉」の方をお薦めします。無色透明な天然ラドン泉、正確には、単純弱放射泉と言い、医療面での薬効も高く、自立神経失調症、ストレス解消などにも効くそうです。
中央道飯田ICから、約15分弱、JR飯田線「天竜峡」駅で降りれば、そこは、もう天竜峡です。是非、一度お越しになって下さい。

もっとも、一口に「伊那」と言っても、伊那市を中心とした「上伊那郡」と飯田市を中心とした「下伊那郡」があり、勘太郎さんが活躍したフィールドは、上伊那のようです。今、伊那市最大のお祭り「伊那まつり」の前身は「勘太郎まつり」と言ったそうですし、伊那市には、「伊那の勘太郎碑」があります。映画の主人公の名前に過ぎなかった「伊那の勘太郎」は、それほど、地元の人々に親しまれているのです。


 島津亜矢、「船頭小唄」を「歌う!

島津亜矢さんが、「BS日本のうた」で歌唱された「船頭小唄」は、絶賛を博し、さっそく、「リサイタル情炎」に取り入れられ、「コンサート情炎」で歌われていますネ。
この「船頭小唄」は、野口雨情の詞に中山晋平が曲を付けた作品です。
ここでは、作曲家中山晋平について、簡単にご紹介します。

中山晋平は、明治20年(1887年)、長野県下高井郡日野、現在の長野県中野市に生まれました。
島村抱月の家で書生をしながら、東京音楽学校(現・東京芸大音楽部)を卒業、島村抱月の依頼で、芸術座公演「復活」の「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」で、一躍、作曲家として有名になりました。
彼は、野口雨情らとともに、日本民謡の調査を始め、その後の歌謡曲の方向性を決定付けたと言われているほど、画期的な作品「船頭小唄」を発表しました。「出船の港」「波浮の港」「東京行進曲」「東京音頭」などのヒット作もあります。

島村抱月の死に依り、芸術座は解散、彼は「童謡」にも進出し、すぐれた作品を数多く残しています。
「シャボン玉」「あの町この町」「「雨降りお月さん」「兎のダンス」「「証城寺の狸囃子」(野口雨情)、「雨ふり」「里ごころ」「砂山」「山の唄」(北原白秋)、「背くらべ」(海野厚)、「てるてる坊主」(浅原鏡村)などは、今でも、歌われています。昭和27年没。
生涯に残した作品数は、2000曲にものぼるそうです。

出身地の中野市では、彼の業績を称え、次の時代への継承と発展を込めて、「中山晋平記念館」を建てています。
間山温泉「ぽんぽこの湯」は、そのスグ側にありますから、お帰りには、温泉で温まって行って下さい。





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